二〇二〇年、予期せぬ疫病が世界的に流行し、パンデミックが起こる。
小さなウィルスが、社会の営みを止めてしまった。感染を防ぐために人の移動が制限され、経済活動が停滞。日常的な交流すら制限され、それまでの暮らしが、コロナ禍によって一変した。まるでSFのような現実に直面し、当たり前のように謳歌していた文明生活が、砂上の楼閣の如く脆いものだと気づく。
こんな危機的な状況で釣りなど叶うはずもなく、悶々とした日々を送っていた。巣ごもり生活の間は、来るべき日に備えてタックルの手入れに勤しんだ。そして迎えた自粛の解禁。私は喜ぶ間もなく、落胆の日々を送ることになる。待望の釣行に向かう前に、なんと利き手を骨折してしまったのだ。
かくして釣りの自粛は延長。釣友たちから届く写真を見れば、心は踊るが為す術もない。ギプスで覆われた右手を眺め、己の運命を呪うだけだ。
友人のTから連絡があったのは、そんな時だった。
久しぶりだったこともあって電話越しの会話が盛り上がり、会って飲もうということになった。
Tと私は、旧知の釣友。酒が進むにつれて会話が釣り談議に染まっていくのは自然の成り行き。
「手を骨折したって聞いてビックリしたよ。お前のことだから、この時期は仕事のついでに全国を飛び回って釣りしてるんだろうなって、思ってたから」
Tはギプスで固定された私の右手を食い入るように見つめ、「もう、飲んでも大丈夫なんだよな」と言って御猪口(おちょこ)にぬる燗の酒を注いだ。
「まあな、自粛が解けたら琵琶湖でバスもやりたいと思ってたし、道北の海サクラもこれからって時だったから、ショックは大きいよ」
私は御猪口の酒を一口で飲み干すと、腹の中に溜まった鬱憤を吐き出すかのように深いため息をついた。
「そういうTはどうなんだ。もう、釣りは再開してるんだろ?」
「まあな、俺は代わり映えしないというか、地元の川でやってるよ。そういえば、今年は駅裏の川で、家族連れとか子供たちがヤマベ釣りをやってるのを見かけるよ」※北海道の『ヤマベ』は、オイカワではなくヤマメの別称(以降、短竿の渓流釣りをヤマベ釣り。魚をヤマメとする)
「そうか、昔に戻ったみたいで嬉しいな。俺たちも子供の頃、そうやって釣りを覚えたもんだ。釣りは『鮒に始まり、鮒に終わる』っていうけど、寒冷な北海道じゃ、フナより、ヤマメのほうが馴染み深いからなぁ」
「そうそう、俺もさ、昔を思い出しちゃって、久しぶりにヤマベ竿を持って釣りに行ったら面白くなって、ここんとこ、ヤマベ釣りばっかりやってるんだ」
北海道のヤマベ釣りは、三メートル前後の短竿を使う独特なスタイル。初心者にも馴染みやすい釣りだが、極めるほどに奥が深く、様々なパターンの技法がある。ヤマメの降海率が高く、小型が数多いというフィールドの事情に特化して発達した独自の釣法だ。
「昔はヤマベ釣りに夢中だったよ。今年の夏はさ、原点回帰しようかと思ってる」Tは少し照れくさそうに頬を緩めて、今年の夏の抱負を語った。
そういえば、ここ暫く私は『ヤマベ釣り』をしていない。ルアーや本流竿でヤマメを釣っているが、短い渓流竿を使うヤマベ釣りはご無沙汰している。
「でさ、旭川の近郊は熱いんだよ。深川に魚道が出来てからサクラマスが遡上するもんで、ちょっとした沢にも結構ヤマメがいて――。ん? どうした神谷、 ぼーっとして。こんな話はつまんないか?」※ヤマメは、サクラマスの陸封型。
「あ、いや。そうじゃなくて。しばらく、ヤマベ釣りをやってないなぁと思ったら、つい考え込んじゃって。ごめん。実はさ、アラスカでキングを釣った後に、何故か無性にヤマメが釣りたいって思ったんだよ」
「へぇ、何だろうな、それ。でっかい魚を釣って、ヤマメが恋しくなるなんて。考えたら、なまら可笑しいけど、ちょっと分かるような気もする。しばらくルアーやフライばっかりやってた俺が、最近、マジで面白いって思っているからね」
「そうか。なら、手が治ったらヤマベ釣りに誘ってくれよ。俺らにとったら原点の釣りなんだから」私の言葉に頷いたTは、すっかり赤くなった顔に笑みを浮かべ、追加の燗酒を注文した。
思えば、アラスカでの釣りを目標にしていた私は、ジャンルに、テクニックに、釣果に、サイズに、拘ってきた。そうして経験を積む一方で、子供の頃に抱いた釣りのコア(核)を忘れていったのかもしれない。振り返れば、近頃、釣りにときめきを感じることが少なくなった気がする。
私も原点回帰が必要だな。魚を釣るという行為は、本来、人間の内なる本能から湧き出る欲求であり、単純なこと。現代は釣り具が発達し、釣法も多様化して、楽しむための作業が?雑になっている。もちろん、そこに拘る楽しみもあるが。
「ああ、神谷、誘うから一緒に行こうや。ヤマベ釣りをしようぜ。単純な釣りなんで、馬鹿にしていた時期もあったんだけど、やっぱり、北海道の先人たちが積み上げただけあって、やればやるほど奥が深い。俺がこんなこと言うの、信じられないだろ?」割り箸を釣竿に見立てて降り回しながら熱弁を奮うT。もう二本目の徳利も空っぽだ。
「なあT。俺は、どんな釣りも興味があってさ。何でも手を出すから、素直に楽しめなくなったのかもな。そうか、なるほど。だからキングを釣り上げた後に、ヤマベ釣りがしたくなったのかもしれない。初めて竿を握って、ヤマメを釣った日の感動を思い出したんだ」
私は呂律が回らなくなってきたTにそう言って、酔いが回り、堂々巡りになった釣り談議を締めくくった。
◇ ◇ ◇
年々、新しい釣法や技術が開発されるが、魚を釣るという行為の根本は何も変わらない。どこまでいっても釣りは釣りであり、その楽しみは不変である。
娯楽が溢れた現代社会でも、釣りは老若男女問わず掛け値なしで楽しめる遊びだ。自粛が解かれた後、家族を連れ立って釣りを楽しむ姿をよく見かけるようになった。コロナ禍で、その魅力が再認識されたようにも思える光景だ。
釣りを長年やっていると頭でっかちになって、見えなくなることも多い。もしかすると、私は大切なことを忘れかけていたのかもしれないナ。
◇Photo graphic
001・コロナ禍の自粛が解ける直前に利き腕を骨折。ツキに見放されたようだ。
002・釣行が叶わない日々に思いを馳せるのは、ヤマメが泳ぐ清流。
003・清流の住人、ヤマメは、澄んだ流れに相応しい美しく可憐な魚だ。
004・北海道独自のヤマベ釣りは、三メートル前後の短竿の釣り。初心者でも簡単に楽しめるが、奥の深い釣りだ。
005・叩き、扇引き、引き釣りなど、多様な技法がある。この魚は、攻めが決まった納得の一匹。
006・水面に姿を現したヤマメ。この躍動が感動を呼ぶ。
007・釣り師を魅了するヤマメの媚態①
008・釣り師を魅了するヤマメの媚態②
009・川原で羽を休めるコムラサキ蝶。華麗なゲストも登場する。
010・時にはネイティブのデカニジも釣れる。短竿、細イトのファイトはスリル満点だ。
011・今は亡き、北海道釣り界のレジェンド、畑山徹氏もヤマベ釣りが好きだった。時期になると二人で単竿を手にして、持
てる技を競って楽しんだ。
012・この釣りは私に多くのことを教えてくれた。シンプルだからこそ学ぶことは多いのだ。
神谷悠山 北海道旭川市在住
物心がついた頃から渓流釣りを覚え、これまでに様々な釣りを嗜んだ。その経験を生かし、メディアで釣りの魅力を紹介している作家、構成作家。得意とするのは、内水面のトラウトフィッシング。自らを欲張りな川釣り師と称し、ルアー、フライ、エサを問わず、ノンジャンルで釣りを楽しんでいる。