【 第一話 記憶に刻まれた大魚の波紋。】
釣りは自然が相手のゲームだ。それ故、水面に糸を垂れた後は予測不能で、不思議な事がしばしば起こる。例えば、思わぬ場所で大物に出くわす。予期せぬ爆(ばく)釣劇(ちょうげき)や鉄板ポイントの沈黙も珍しくない。ビギナーがベテランを差し置いて釣果を上げるなど、釣行における珍事は日常茶飯事で、同じ日は二度とない。多くのことが確立された現代に生きる我々にとって、こんなに魅力的な遊びが他にあるだろうか。
釣りを覚えれば、身近な水辺も浪漫(ろまん)に満ちた異空間になり、手軽に冒険が体験できる。今はジャンルも多岐にわたり、対象となる魚も数多い。ひとたび、その世界に足を踏み入れれば、発見と驚きが幾重にも堆積した底無し沼から抜け出せなくなる。かく言う、私もその一人なのだ。
けして飽くことのない深淵(しんえん)に囚われた釣り師は、高みを目指さずにはいられない。次々に沸き起こる好奇心を充足するには、フィールドに足を運び、己(おの)が技術を磨くしかない。経験値によって目標とするところは異なるが、その情熱の根底にあるのは、数とサイズの追求ではなかろうか。私が心惹かれるのは淡水の大魚だ。
北海道には淡水と海を行き来する鮭科の大魚『イトウ』が棲息している。この魚はともかくスケールが壮大で、様々な逸話や伝説を纏(まと)う。
「熊を食うほど大きなイトウが居た」。「鹿を飲み込んで死んだ巨大なイトウが、川を堰き止めて洪水を起こした」。「朝に橋の上から川を遡るイトウの頭が見えたが、夕方になってもまだ尻尾まで辿り着かなかった」など、途方もない話がアイヌ民族の口伝(くでん)で語り継がれてきた。近代では、中国のハナス湖で目撃された10メートルを越える大紅魚(だいこうぎょ)が、イトウの一種ではないかと囁かれている。
ここまでいかなくとも、実際に一九三七年(昭和一二年)に十勝川で二メートルを超える個体が捕獲されたという記録もあるのだ。
* * * *
これからする話は、私が大魚に心惹かれるようになったきっかけ。過去の釣行で、イトウと思しき巨大魚と遭遇した実体験だ。日本の水辺にも規格外のデカイ魚が潜んでいる――。
昭和五二年六月中旬、その出来事は起こった。
当時、高校生だった私は、釣り好きの父と毎週のように南富良野町の金山(かなやま)湖(こ)に通っていた。その頃の金山湖は今のように整備されたリゾート地ではなく、野生が香る自然豊かな人造湖だった。
記憶に残る父との釣りは、こんな感じだ。
「金山湖に釣りに行く」と決めた日は、午後九時くらいに自宅を出発。釣り場に到着するのは、大体、午前0時前。まずは父が、大型魚の回遊を狙って明け方まで泥鰌(どじょう)のブッ込み釣りをする。その間、私は車の中で仮眠を取り、朝マヅメからルアーフィッシングを開始。それに合わせて父もルアーにチェンジして、二人で湖岸をランガンしながらイトウやアメマスを狙い、午前十時くらいに釣りを切り上げるというのが、いつものパターンだ。
釣行前日の土曜日。翌日の天気予報は、風も穏やかで絶好の釣り日和(びより)。こんな日に釣りに出掛けないはずはない。半日の授業は、気もそぞろで全く身が入らない。案の定、学校から帰った私に「今夜、行くぞ」と、父から号令が掛かった。
いつも通り金山湖に向かった私たち親子。父の夜釣りは絶好調だった。空が白むまで大型のアメマスやウグイの引きを楽しみ、上機嫌で私を起こした。
「おい、明るくなったから、起きろ。夜が好漁だったから、きっとルアーもいいぞ。大物が釣れるかもしれん」
その言葉で目を覚ました私は、すぐさま愛竿ガルシャのグラスロッドに、アンバサダーのベイトリールを装着。憧れていた作家、開高健気取りでキャスティングを開始した。
しかし、父の言葉とは裏腹に魚の反応はまったくない。トラウトどころか、いつも邪魔をするマルタウグイすらヒットしない。タックルボックスのルアーを総動員してヒットパターンを探るも、バイトどころかチェイスもないのだ。
「おかしいな。ウグイも来ないなんて。どうしたんだろう」
理由が分からないまま、時間が経過していく。
次第に陽が高くなってきたので、浅場が続くキャンプ場のエリアから水深のある陸橋付近に移動してキャスティングを再開。ジョイントミノーを数投して、ルアーを交換しようとしていた矢先だった。それまで鏡のように穏やかだった水面が騒ぎ出して、大型のアメマスが次々と水面に姿を現した。
「なんだ、これ。異常ボイル?」
初めて眼にする光景に戸惑いながらも注視していると、通常の回遊ではないのが分かった。何者かに追われて、逃げているような慌てぶりだ。
「これは、一体……」
父と私の目線は、その異様な光景に釘付けになった。
それから間もなく、水面から鮫のような大きな背びれが突き出した。次の瞬間、六十センチは優にあるアメマスがジャンプ。その後に続いて巨大な魚の頭が出現。そして小型のボート程もありそうな魚影が浮かんだ。
とてつもなく大きなソレは、逃げ惑うアメマスを追って沖に泳ぎ去った。残念ながら、巨大魚との距離が四十mくらい離れていたので魚種の特定は不能。しかし、この湖に生息するモンスターとなれば、やはりイトウか。大魚が消えた湖面は、何事も無かったかのように穏やかさを取り戻した。
「ふぅ……」
父と私は交わす言葉も見つからず、毒気を抜かれたように、その場に立ち尽くした。
恐怖さえ覚えるような光景を目撃してから長い月日が経った今でも『あれは一体、何だったのだろう?』と、考える時がある。こんな話は俄(にわ)かに信じ難く、夢や幻の類(たぐい)だろうと思われる方もいらっしゃるだろう。事の真偽を証明する術はないが、これは紛れもない現実。私は、この目でハッキリと怪魚を目撃したのだ。
その魚に対する畏怖の念が歳を重ねる毎(ごと)に心の中で発酵し、いつしか大魚への憧れに変わっていった。
今でも釣りをしていると、あの時にタイムスリップしてしまう。だが、これはある意味、幸せなフラッシュバックかもしれない。いつも眼の前の水面から巨大な魚が現れてルアーをくわえる妄想に憑かれているのだから。
■写真
001・南富良野町にある金山湖。石狩川の大支流、空知川の水を集めた人造湖だ。
002・現在、左岸はリゾート地として整備されているが、今も野趣あふれる水辺であることに変わりはない。
003・広大なダム湖でも、時期とポイントを選べば良い釣りが叶う。
004・今も金山湖には、イトウが棲息する。あの時の大魚にふたたび巡り合う日が来るのだろうか。
005・獰猛な肉食魚であるイトウは、精悍で無駄のないフォルムをしている。
006・この湖に生息する大型のアメマス。こんな大物を捕食しようとするなんて、一体、どんな魚だったのか。
007・釧路湿原展望台にある二メートルオーバーのイトウのレプリカ。このサイズは、鱒釣り師一生の夢。いつかは手にしたいモンスターだ。
神谷悠山 北海道旭川市在住
物心がついた頃から渓流釣りを覚え、これまでに様々な釣りを嗜んだ。その経験を生かし、メディアで釣りの魅力を紹介している作家、構成作家。得意とするのは、内水面のトラウトフィッシング。自らを欲張りな川釣り師と称し、ルアー、フライ、エサを問わず、ノンジャンルで釣りを楽しんでいる。